ゲイとして生きていく上での心や体の悩みを相談してみよう。ネット上にいる兄貴や弟が相談にのります。
映画『息もできない』を観ていたら、シーバルロマ(馬鹿やろう!)が口癖になってしまいました。幼い頃、継母につけられた傷がうずきます。
怒りや悲しみの中で生きてきた少年時代。
まるで自分と似てるようで、すごく主人公と重ねてしまいます。
両親とは4年ぐらい会っていませんが、あまり会いたいと思いません。
それでも父親には還暦のお祝いしてあげなきゃと思っていますが、
もう両親の死に目に会えないぐらい思っていますが、やっぱりたまには
大阪に帰るべきなんだろうか。
いつか傷が言える日はくるのだろうか。
『告白』
聞かん坊で、どん臭くて、泣き虫な少年だった。小学校では、よくいじめられていた。
家でも母親に毎日のように怒られていた。両親とも働きに出て、僕は妹、弟と遊ぶこともしばしばだった。小学校高学年には反抗期を迎える。中学校に入り僕は意識して自分を変えた。
平凡であろうとした。真面目に授業を受け、テストでそこそこの点数を取り、放課後にはクラブの水泳に精を出す。そしてごく少数の気の許せる友達。おそらく水泳部に入ったおかげで、それなりに穏やかで充実した中学生活だったのだろう。しかし家庭内での僕の反抗は年を追うごとにひどくなっていった。14歳。中学3年になると同時に進路を決めなければならない。僕の頭に高校進学という選択はなかった。始めは服飾デザイナーだった。専門学校のパンフを取り寄せた。しかし美容師になろう、というのが僕の決断だった。あくまで美容師になりたいから、高校にいく必要はないと僕は思った。専門学校も考えたが、僕の心の中にはっきりと、『もうこの家にいたくない』という気持ちが芽生えた。。そして中学卒業後、美容室に住み込み見習いとして就職した。家をでたことで、母親との確執も表面的にはなくなった。もうそんなことをする必要もない。自分の道は自分の手にあるのだ、という意識があった。
家を飛び出して2年が過ぎた17歳の時、実家に帰った僕は事実を知る。僕はずっと本当の母親だと思っていたのだが、実は僕が5歳の時からの継母だった。17歳の僕はそれでも、「それでなにが変わるわけでもない。今まで気づかずにいさせてくれたことが嬉しい」と思えた。
月日は流れ、僕は22歳の時大学に入学した。その時ぐらいから、再び母親との関係が揺らぎはじめる。そして卒業してすぐの26歳の春、実家に帰って、僕は絶対許さないと思えることがあった。言い争いになっていたのだが、僕は絶句してそれ以上なにも言わず出て行った。もうこの人には会うまいと決意した瞬間だった。
そして今33歳7年間会っていない。しかしたかだか7年である。まだ僕はあの女を許す気はない。僕と母親とはどうしても気が合わない者同士、そんな風にしか考えていない。
僕はあの父親の妻から本当に愛されたのだろうか。わからない。
逆の視点から・・・
彼女は鹿児島で育ち、大阪で就職していた。23か24歳で百貨店に勤めていた。会社帰りに立ち寄るお気に入りの炉端やき屋の店主に激しく恋に落ちる。石川県から大阪に来ていたその店主も、その女性に激しく挽かれるようになる。ある夜彼女は店主に家に誘われる。彼の家に入ると4歳の少年が寝ている。「こいつ俺の子どもなんだ。」「子どもいるけど、一緒になって欲しい。」彼女はとまどった。が恋の激しさが彼女に勇気を与えた。「あなたの子どもだもの。きっとうまくやっていけるわ。」二人は結婚した。彼女は結婚してすぐ女の子を産む。そしてその一年後
男の子を産む。5人家族のにぎやかな家庭を形づくった。しかし自分が産んだ二人は素直に育っていくのに対し、堅い決心をして育てようと思った上の子は全く自分の言うことを聞いてくれない。しかし彼女は落ち込んでいる暇はなかった。子育てに仕事に追われていた。しかし連れ子のあまりに心無い言動に思わず涙するほど辛い時もあった。そんな5人での生活は10年間だった。少年が15歳の時に、自分から出て行ったのだ。しかし少年以外の4人の家族の結束、そんな空気が彼を追い出したのではないだろうか。
僕は彼女に問いたい。「自分が産み落とした子と僕と本当に平等に愛したか」と。だけど、
人間だからそんなこと聞いても仕方ない。そんなこと求めるほうが間違っている
DIME (2011/08/03 Wed 22:33:42) pc *.22.228.62 メールを送る
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