
ゲイとして生きていく上での心や体の悩みを相談してみよう。ネット上にいる兄貴や弟が相談にのります。
ここの板って、とかく既婚者に対してだと非難を浴びせたり、
ここぞとばかり自分は聖人君子のような回答をする者が多いけれど、
既婚であろうが、子供がいようが、
男を好きになってしまったことや、ゲイであることを強く認識してしまったりということは、
実はゲイの素養を持った者なら極く自然なことで、
その感情に従って行為に及んだ所で、ここの誰が非難出来るでしょう。
好きになるということ、人に惹かれるということに、
既婚も家族持ちも無いでしょう。
36歳を盛んに“いい年”と言うけれど、
人格の進歩に到達点なんて無いのだし、
そこに達しただなんて思う御仁は、進歩の歩みを止めたと公言しているだけ。
マリア・カラスは、『円熟した』と評価されると、
『円熟なんて、衰えたってことだわ。』
と言ったとか。
悟りなんて、所詮は諦めが早いこと。
達観なんて、考える事を止めてしまうということ。
マノン・レスコーは、一人を生涯愛するけれど、
貞操は1週間しか守らない…と言われた。
けれどそれはそれで、人生を彩るには最適でもあり、
それこそゲイの人生の特権に置き換えも出来るでしょう。
人間は一通りだけで生きているわけじゃない。
きれいごとに終始した発言など、実は妬みが根底だったりが多い。
そうしたいのにそう出来なかった自分を、
正当化しているような惨めさすら表出してたりね。
なぜ家庭持ちが、家庭だけで人生を送らなければならないのですか。
何が何でも、子供への責任だけは果たさなくてはなりませんが、
男を好きになったからと言って、
別にそれまでの歩みを変更しなければならない必要なんてないでしょう。
人生は様々な花を咲かせ持ってこそ相応しい“限りある一度きりの時間。
こちらはこちら、あちらはあちらと使い分ける“必要悪”を
何故二人で身につけようとしないのですか?
“ずるくない”人生なんて、この世に存在します?
二人で過ごす時間は、二人だけで共有すれば良い。
家庭に持ち込むことこそ、“大人げない”というもの。
36や31を“いい年”というならば、
その大人げなさを決して表出させないことこそ年齢に見合ったことです。
どちらか一方にすることこそ人の道だなんて、
小便くさい、甘っちょろい事は言わず考えず、
二人だけの世界を堅持して、甘美に漂流すればいいんです。
好きになったら、行きつくところまで、
好きな同士で彷徨えばいいんです。
夜光虫 (2011/12/28 Wed 01:26:58) pc *.117.163.189
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