
ゲイとして生きていく上での心や体の悩みを相談してみよう。ネット上にいる兄貴や弟が相談にのります。
愛は惜しみなく与う
愛は惜しみなく奪う
いいえ、愛は惜しみなく自他を認める心の強さに宿るもの
これが最近のあたくしの命題なのです。
奪うのも与えるのも自己本位でしかない。
いいえ、与えるの意味は、勿論そういう深く穿った意味ではなくて、
自手に誠を捧げる意味の、尤もなことでしょう。
しかし、与えることは非常に難しい。
与えられて完全に喜べる生き物で無いことは自明なほど、人間は傲慢で
荒んだ誇りまである自分中心の思慮の浅さは多い。
与えられたことの価値を真剣に思わない人が多い。
与えられた愛に「気づき」「響く人になる必要」がある。
その意味で、あたくしは、「認める心」を先に思うのです。
これももちろん、非常識な極悪な罪のことをまでは指しません。でも、
どうしてその人はそうか、と考える心根に、優しさや愛は生まれる。
そして、それは時に、「正直な刃」を向けて、また浴びることになる。
そして、それをどうして向けてくれたかを知る時に、愛は生まれる。
その正直の価値に気付かなければ愛にはいたらないのです。
あなた、しんさんやレッツさんが非情なまでに真摯な見解をください
ました。本当にそうですね。
何が原因かと言えば、実に、多感な若き時代に戻るように思います。
そして、あたくしは思うのだけど、
臆病なまでに純粋で誠実であった青春の心の襞が、心無い誰かの何かで
傷ついてしまったことが他人に自分を見せられない貝の心を生むのでは
ないかと思うのです。
傷ついた心は誰かに吐露して包まれる必要がある。
誰かに告白をして自分の年輪を薄めなくては自分を解放できず、自分の
中だけで思いを駆けめぐらせ、沈んでいくのです。
それは、愛にはどんどん遠い遠心力を強めるだけになる。
一刻も早く、愛を得ましょう。
愛された記憶は、自分がそれで善かったという肯定を得るのではなく、
過去の自分が愛おしく改悛でき、自分で自分が未熟だったことにまで
気づくことへいざなう。
そして、過去を超えて今を堂々と歩もうとする明澄な心を生むのです。
それは勇気とも換言できる。
もう誰かにどう傷つけられてもそれにはひるまない自分を生ませてくれ
るのが相愛の記憶です。
自分が変わることに賭ける意志が「愛」というものです。愛せないと
嘆くのは変わろうとしない弱さのままの泣き寝入り。
愛は自然に湧くのを待つだけでは興らない。
愛はその人に賭けて(信じ)、正直な自分を浴びせてかつ、相手の身で
応えて捧げる、その覚悟で成すものです。
相手に迎合だけする、かりそめの善後策は間違っている。
それで誤魔化そうとしたことが愛を生まなかったことに気づきましょう。
真理之丞宥恕愛 (2012/01/13 Fri 13:13:40) pc *.18.177.128
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