
ゲイとして生きていく上での心や体の悩みを相談してみよう。ネット上にいる兄貴や弟が相談にのります。
あなた
あたくは思うのだけど、
誰かの為に頑張れる、というのは、実は究極的には嘘なのです。
いえいえ、嘘八百、という意味ではなく、実際は言葉の通りではないのだよ
という意味です。誰かのために、というのは、
「自分がしっかり在って」「自分の考えもきちんと、暮らしもそこそこは
安定して過ごせていて」ということの上でやっと実現できること、
人間は野を駆けずり回って自分で土埃を舐めて綺麗にできる生き物でもない
ために、自分がちゃんと暮らしている、心も満たされている、何かを頑張れ
ている時に、誰かに無償という慈善をやっと実現できるものなのです。
自分が着の身着のまま、食事も摂らず、語ることもせず、何も買いもせず、
そんな人が本気でとことん目に見えない誰かのために命に代えてでも、の
ようには決して献身などできるものではないのです。
歴史上の偉大な過去の愛の施し人も、今の世の中の正義の闘争家も、
実は、誰かが実際的に観の周りを付けるか協働、ないし共同で、助けてくれ
ていることを、ふつうはあまり考えようとはしません。
しかし、本気で誰かのために頑張る心にも、
誰かから愛されることも、誰かを愛することも、誰かと語ることも、
実は毎日のように必要なのです。
たった一人、野に咲く花が、自分が枯れて、誰かの栄養になどできることは
ありません。
そういう意味では、
あなたは先ずはあなた自身の幸福のために生きることでいいのです。
あなたが嬉しく満たされることこそが、誰かの幸せになる。
殊更、それが愛情の仲のことでなくてもいい、あなたが孤独を脱し、あなた
が誰かを思い、あなたがエッチの後で語り明かすことでもいいのです。
先ずは自分の歓びとはなにかを考えなさい。
そして、そのために、他人を蹴落とすような、あるいは不快を向けるような
エゴイズムやジェラシーで対することはいけませんが、
自分の幸せ本位で夢を追ってもいいのです。
もしも、誰かの里親さんであっても、それはあなたの人生のすべてではあり
ません。あなたにはあなたの生きる根幹の軸が必要なのであり、そこの部分
でゲイであっても誰かを好きになり添うことを考えてもいいのです。
一人きりで一人で食事して、世界の最果ての貧しい小学生を想像だけしての
生活は嘘の生活。あなたが今誰かと幸せになることが必要なのです。
善い泣ける話は涙が枯れたら現実に戻る。
その現実のところで、あなたが幸せと思う生き方をしてほしい。
だから、泣けたり尊敬する話の虚構を追う(聴く)意味はありません。
あなたの愛すなわち、道をどうするか。それを求めるようになさい。
真理之丞野菊墓 (2013/04/02 Tue 22:12:03) pc *.198.54.171
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