
ゲイとして生きていく上での心や体の悩みを相談してみよう。ネット上にいる兄貴や弟が相談にのります。
あなた、
信じる信じないの問題ではなく、
できればもうけもの、何かときめくことがあれば、それに縋らず期待せず、
今は今の風の中で楽しむ。別れは来るかもしれない、
しかし、それでも自分と相手の何がいけなかったのかを見つめ直し、
今度はまた違う角度と思慮でやってみる、
我々の恋愛の場合、そうした積み重ねでもいいのではないのでしょうか。
しかし、このことは、数を踏めば当たり籤もある、とか、
無駄な抵抗を重ねる、ということでは決してありません。そして、夢想し
て期待ばかりしているような=先延ばしのことでもありません。
あるがままに向かう、しかし、自分の余生は自力でどうにかしようとする
努力だけはコンスタントに続け、その中で、ずっと続く友ができ、
偶然掴んだ恋が愛になって続いていけばいい。
それで大丈夫として涙を流さなくてもいいのです。
またダメだ、というそのダメは、本当の意味で自分を省察していないこと
が原因で、変わる気がない試行錯誤の連続のまま失う重ね方しかできない
ということなのです。
自分を無理に変えることはしなくていいし、そうそうできません。
でも、相手あっての恋の場合、同じ轍を踏まない意識はしなければなりま
せん。「適当に」ただ鐘を打ち続けても無残な悲哀しか残らない。
自分の意識と相手の意識、理解できる器の問題が大きいのです。
男女間の夫婦でも、相手を良くも悪くも知って、どこか諦めて思い直す目
を持ち直す連続でやっていることが多いのです。ゲイはそこで別れて済み、
せいせいして退ける。そしてまたネット時代のゲームを始める。
そういうことになる以前に、相手とどこか共感でき、価値観が通ずる場合、
相手のどういう場合も受けて立つ、また気を取り直し掛け合う、と、そう
いう努力をするかしないか、それをできる器量が大人として備わっている
か、目先に囚われて見失い見誤っていないか、
お互いを理解しようと歩み合える、響き合う人を求めることに本気であれ
ば、見た目に流された気紛れな恋をすることも少なっていくのです。
本当に欲しいものは何か。
相手の肉体を額縁に入れて、鑑賞しつづけるエロスだけを問うのか、それ
とも人間としての生き方が自分を喜びに包んでくる相手の心を取るのか。
やはり、内面を見なければ(考えなければ)いけないのです。
実は、あなたには認識も努力も足りていません。
「なんとなくの連続」は死への遁走曲のように、悲観だけが重なる。
「テキトーの運」に賭ける努力不足は、世間のせいにして言い訳を増す。
あなたはその人の内面を引き出して話していますか?
あなたはその人の生き方と心を探ろうと自分をぶつけていますか?
やっぱり違う、というのは、そういう努力をしない人の自己防衛であり、
相手を本当に考えてもいないし、愛そうともしていないのです。
先ず、人を嘲笑うことは止めなさい。自分を恥ずかしく思うことを辞め
なさい。自分の思いを素直に伝えることを、今一度してから遺書を書きな
さい。身体とイケメンさんに「だけ拘る」のであれば、老化を愛に変えら
れずに惨めなモグラ叩きを重ねて行くだけなのです。
「本気には本気が降ってくる。」これは世界中の愛と仕事の真理なのです。
真理之丞本気蜜 (2013/05/13 Mon 01:14:38) pc *.198.54.171
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