
ゲイとして生きていく上での心や体の悩みを相談してみよう。ネット上にいる兄貴や弟が相談にのります。
「人生の枯淡」または「哀愁」。
この言葉を誰しもに捧げたいものです。
これは、乾涸びた落ち目の意味の言葉では決してありません。
どういう人間性も、芸術も、輝かしい躍動をいかに尽くし極めても、最終
のステージはそういう生きた喜びの後の、静かな、ありのままの自分を
受け容れて歓べる「ある種の前向き」が、人間を前進させることもあるの
です。
しかし、若い時節から好き放題で、欲しいものは全部実現させ、
<我が人生に悔いなし>という御仁が、死期を見据えて哀歓を謳うことと
上記は実際には違う。
どういうことも、成せなかったし、実現をさせられずに、
悔しく焦り、泣き濡れた夜ばかりだった人でも、その後には心の持ち方で
光沢のある歓びを味わえるものなのです。
あたくしの今思うのは、何をも得られなかったけれど、夢想して自分なり
にやってみただけでも喜ばしいし、それを認めてあげたい、ということ
なのです。
だから、あなたの苦心は無駄骨の骨折り損の無様なものなのではなく、
あなたなりに、あなたの足らない器量でもやってみた、
それはとても愛おしいことで、
あなたは落胆をすることなんかない。
あなたの人生はまだつづく。だから、何回どう心が寒く塞いでも、食べて
寝て、また元気を出して(気張り過ぎずに)トライすることでいい。
あたくしの書いた意味は、そんな気持ちのことなのでした。
あるがままを「下手に肯定する」のは軽過ぎる。
しかし、あるがままを自分でゆるしてあげて、明日の、変わり映えのない
自分をどうにか反省しつつ歩むことは恥ずかしいことではありません。
だから、あなたも私も歩むことを苦しまないでいい。
しかし、あなたは自分を語り、相手を聴く心を持って、本気で出遭った人
にぶつかることを真剣であらねばいけない。足らないのはダメなのです。
恥ずかしいほどぶつかるべきなのです。何歳であってもです。
あたくしの言葉を誰かがどこかで読んでくれている感激は、あたくしが
明日を泣きながらも歩ける勇気になっています。
一筋の稀有な兆しで歩めるほど、人生は捨てたものではないのでしょう。
モォツアルトの手紙を読むと、彼が天才だけで生きていた訳でないことが
解るのは興味深いことです。父の呪縛は残酷だったけれど、彼はいつも愛
を求めていたのです。そして、気遣えた少年なのでした。
その気遣いが珠玉のさり気ない音になって出る。
人間味を失わないことが人生と芸術と、恋愛の鉄則のように思えます。
感謝をこめて。http://youtu.be/cw7qRIvhZ3k
真理之丞海之光 (2013/05/15 Wed 00:27:32) pc *.198.54.171
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