
ゲイとして生きていく上での心や体の悩みを相談してみよう。ネット上にいる兄貴や弟が相談にのります。
その国の星の下に生まれ、その社会で生きて、
その親の許で親の愛で生き始める。成人する。
その時、生まれ落ちてゲイの衝動をもってしまう自然を誰がどう授けてしま
うのか、
その道の中で、まだ若い(比較的若いとして)、
或いは、猶予が許されなくなった中年期にさしかかっても、
契約の道を選んでしまったことには、
誰が何をも、その人の人生を誹謗などできはしない。
その選択者がその牢獄に気付き悩める時節に添うて考えるのもゲイの心根で
あると信ずるものです。この掲示板の存在の意義はそんな裏側の窪みまで
あるものとあたくしなら考える。
親の愛を生きて謝することよりも親よりも生き延びる子息が自分の道を優先
して意志を通すことは、理屈では自分の人生が優っても、その優劣は誰にも
何も言えないことでしょう。ましてや、その地域や社会の中で疎外されて罪
もない罪人として生きる事すら難しく悩む悲しみの現場に、誰がどう自分の
選択の罪だなどとゲイこそが四面楚歌を敷き詰りかませるものでしょう。
相手をいとも簡単に棄てない心根で生きようともがく人の苦悩にまで思いを
馳せることこそが人としての深さなのであり、
ポイ捨てのアバンチュールの皮相を書いたことでないくらい、二度読めば誰
でも解ると言うのはあたくしの私見でしょうか。
いいえ、そうではありません。
そう生きざるを得ない道に出た人の生きた証しになる苦悩の解決こそできる
ような人で在りたいものです。このことをそこまでは思って書いたのでない
のでも、教えてくれる人が居る。
これは別格に大きなことです。
あたくしが愛して止まないのはそこの響きなのですね。それを知る思いです。
そこまで書く人が居るのに、この相談者は大した説明もしていない。自分の
中の堂々巡りや皮相的な悲哀に酔うことこそがその選択の罪なのです。
海の光は夜のものに非ず。昼の光の暖かさはキラキラと人を包む。彼の心根
は背徳の中を泳ぐ昔から居続けた性の喘ぎを鎮める愛に満ちている。
非難尽くしの留まりでは、たとえそれが自然であり、また必要でも、誰をも
解決に導くことなどありません。どうしたらそこを切り抜けて人生を明日に
繋げられるのか、それが回答の奥義というものなのです。
ディオニューソスの神が人間に与えた苦しみの中の愛。それは、背徳の中に
さえも光明を与えることがあるかもしれません。
真理之丞あなた (2013/05/17 Fri 01:38:34) pc *.198.54.171
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