
ゲイとして生きていく上での心や体の悩みを相談してみよう。ネット上にいる兄貴や弟が相談にのります。
考え至れば、結婚という契約を結ぼうと、それがゲイでの結婚であろうと、
継続の果てに行きつく繋がりは、性愛を超えたものだということです。
しかしそれは、性愛を超えてしか得られないものなのでしょうか。
性愛の欲求は自然のもので、それは本来種の継続という任務を負った上にあるものでしょう。
しかし、殊更人間に顕著なのは、寂しさの歪みとでも言うべき心の底で求めた行為であるかもしれないとは、
我が身に鑑みても否定しきれるものではありません。
相手の思いを確認しなければ済まない心の頼りなさから縋ろうとする、孤独の恐怖から逃れる行為でもあるのでしょう。
性愛を、単に快楽の手段とする所も強く、ならば結婚など公然たる生殖の許可証というだけで、
その契約は、言わば偽証文でしかない場合も多いのです。
子供はその挙げ句に出来た産物でしかない場合も、実際には数知れないでしょう。
性愛が、肉体と未成熟な精神からなる欲求でしかなかったら、
互いに使い古されたなれば、後は触れたくもない残骸でしかありません。
絆(木綱)というものは、性愛の確認の上に生まれ出るものではないとの証明ばかりがある…
そんな事例ばかりが見えてしまうのは、やはり辛いものです。
何らかの要因で継続された関係が、年月を経て様々な出来事の末に達し得る境地…、
実は諦めの末に譲歩の妥協点を見出したという類かもしれません。
それ故に人格の高い側ほど忍耐と沈黙を強いられるのでしょう。
舵を取る側の成果です。
それは、どんな形の交流であろうとそれに変わりはないでしょう。
天才の憂鬱は、人格の高みが年齢を超えているからではないでしょうか。
自分がそれと認識出来るとは言えないだろう七歳のモーツァルトの憂鬱は、
認識がないだけその作品に現れます。底に漂うものがそれかと思います。
認識すればするほど、それこそが類い希な美感として結晶を結んだ好例の一つが、チャイコフスキーかもしれません。
紛れもなく誇るべき事に、それは彼がゲイだったという事でもあるのです。
性愛を超えて、それ以上の場所に二人を位置させる関係は、きっとあるのです。
互いの年を超えて、連れ添って過ごす歳月をも超えて、一気に辿り着く二人だけの世界です。
ドアを開けないにはそれだけの理由がある。それが矛盾や恐れや、深読みの災い、
聡明さ、賢明さなどどれに当て填められても、きっとその決断は正しいのだと思います。
だからこそ私は、せめて毎夜毎夜かの人の枕辺に想いを馳せ…
あたかも尼子の牢獄に捕らえられたまま、菊花の契りを果たすために自害して霊魂を走らせたもののふの如く、
かの人が我が身から唯一解放される眠りの世界に落ちるその瞬間までその顔を見つめ、
うっすらと開けた口元に唇を寄せて、私の憧れと、尊敬と、そして愛しさが寝息に吸い込まれるまで、
声にならない声で歌いましょう。
神が見守る小さな雀のように、私はあなたを見守っていますからと。
http://www.youtube.com/watch?v=0hLv61aKpbM
夜光虫 献呈 (2013/05/23 Thu 13:33:59) pc *.162.100.70
この回答が参考になった: 0人 (携帯からのみ評価可)