
ゲイとして生きていく上での心や体の悩みを相談してみよう。ネット上にいる兄貴や弟が相談にのります。
既婚者がどういう風に過ごしていても、それはそれでいいのです。
ただ、ゲイが自分を基準にその選択者を何の事情も知ろうともせずに憎悪
対象にすることは間違いなのです。
いいえ、間違いではなく、ある意味で過去の傷心では自然なのかもしれま
せん。
世の中の物事や出来事、結果には、
ほぼ十中八九、ビジネスでも恋愛でも、理由や事由というものが必ずある
のであって、何事も無かったように話されていていることでも、間違いなく
経緯というものは在るものなのです。
あたくしが述べたかったのは、逃げ帰る所がある遊び人の目撃に代表させ
て、そうした全員を粗悪お粗末に失墜させる語り方であり、
どうせ帰って行くのであっても、
それは、それこそが自ずと自明で彼の道の本道というものなのです。
あたくしは何も博愛を唱えたいのではありません。
意地の悪い者はそのままに、卑怯にかけひきするものはそのままを、最低
として蔑みどうとも揶揄もするでしょう。
しかし、世の中は、そしてオーバーなのだけど、歴史は、
ゲイを許さなかったし許さない世間であって、いいえ、親すらも悲しませ
て悲哀に陥れる個人のシーンであって、そうせざるをえない人も居たし、
居る訳なのであり、ゲイこそが天敵扱いするのではなく、その愛を交える
者の思慮でかわしていけばいいのだ、ということなのです。
一歩外に出れば女性の闊歩している世界。
その女性との恋愛を迫られた人も居る。女性を人間としてみて、悲しませ
るかどうかは不明で婚儀の後をつなげた人もいる。
それはそれなのです。
なにがどうズルいということとは明らかに違うことです。
ズルさはその人が向き合った人が計算しただけのこと。棄てようと視野に
有った人と、本当に触れ合いを持ちたいと何がしか託した人とは違うわけ
なのです。
それにしても輝けり人の恋の遍歴とは残酷なもの。
どういう時にもリアリティーを乗せることができるのは、現実を見据える
芸術家の魂なのかもしれません。経験知こそが意匠を生むのでしょう。
突き動かされる衝動の作品のみが胸を打つ。
その意味で、その恋はあきらかな現在への楔になったことと察します。
一抹の哀しみを抱きながら、バルトの海のセィレーンナータに乗って夢想
は去り行く。タチヤーナが仕舞い込んだ愛の如くに。
http://youtu.be/BwjCWKdhxjk
http://youtu.be/hMuGBkaXnjs
真理之丞無謬愛 (2013/05/26 Sun 01:48:01) pc *.198.54.171
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