
ゲイとして生きていく上での心や体の悩みを相談してみよう。ネット上にいる兄貴や弟が相談にのります。
『自己中で空気読まなくて自分の意見ばかりいう人』とは、
貴方にとって目障り極まりない対象であり、
その理由と根拠は、その人が貴方の持ち得たどの比較からしても貴方より優れている要素が無く、
それでいながら厚顔に存在出来てしまうということ自体に我慢が出来ない…
そんな人の事ではないかと思うのです。
私にとって、この相談室にもそうした輩がいるようにです。
どうした観点からしても尊敬に足るものが見いだせない。
言葉に現実的な実践と実績がまるで見いだせない。
情操の欠片も見当たらない。
熟慮を問う事などまるで出来ない。
それでいながら自己の不足を認めたくないがために、他者との比較を懸命に避け、
現実逃避の挙句に有りもしない高みに自分を置き、終始見下すような態度で開き直る。
実生活に何の関わりもなく、そんな虚構の鼻っ柱を折ったところで何の意味も無いと分かっていながら、
見過ごす事が出来ないのです。
追い詰めてやりたくなってしまうのです。
能力の無い者が何らかの注目を集めるという事自体が許せないのです。
そんな人間に対して『上っ面だけでも合わせる事がどうしても出来ない』というのは、
どうしても見過ごす事が出来ないというのは、
自らの根底にある“植え付けられた意識”からではないかと思うのです。
しかし、そう思ってしまう事から逃れられない自分というものの要因が、
自分が思うように理解されない、認められてはいないというジレンマから発しているのであったなら、
それはどんなに情けないことでしょうか。
どんなに生き方の相違や、社会の中に孤立することの必然性を承知していようと、
そんなところでイライラしてしまう自分というものは、
結局のところ目立ちたがりが思い通りにならないことで駄々をこねるというのに同じなのでしょう。
更にみっともないことなのです。
貴方の場合、父親からの暴力と放任という幼少期の体験があったようですが、
尊敬にも値しない存在に絶対服従と理不尽を強いられた体験によって、
根拠もなく“えらぶった”存在をスルー出来ない意識を植え付けられてしまったとは言えないでしょうか。
父親の死に安堵するという意識は、実は私も同じく有るのです。
あの世なる世界があって、誰しもそこに行くというような事があっても、
僕は未だに父親と会いたいとは願わないのです。
不幸にして早く亡くなった父の苦悩を知れる体験と年齢になってもそうなのです。
身の回りに居るそうした御仁と争ったところで、
解決や安堵など決して見い出せないでしょう。
暖簾に腕押し、糠に釘、思慮に上回る側は、社会の中ではいつでも我慢を強いられる…
これは避けられないのです。
しかし、その御仁に対するような忌々しさなど、例えば政界や学者の世界になど腐るほどあって、
そしてもっと陰険で私利を剥き出しにしてさえの人手の利用とかからしたら、
自分次第で無視すれば出来なくはない身辺の輩など、
所詮取るに足らない“どうでも良さ”なのだという結論に至る筈なのです。
実力を磨いて実績を残す事に専念なさって下さい。
そうした根拠のない自信の言動に有無を言わせない実力と実績を、
その“どうでも良い”人間にこそあからさまに情け容赦なく、
この上ない皮肉にも向けられる程に築いて欲しいのです。
そして同時に、無冠の栄光に満足出来る自分を目指して頂きたいのです。
どちらが残るか、それは時間がきっと示してくれますから。
14日、汗だくで出掛けた明神にお守りも見つけました。
成し遂げた汗が報われますように…そう思って屋根を見上げました。
夜光虫 (2013/08/18 Sun 02:27:21) pc *.164.219.211
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