
ゲイとして生きていく上での心や体の悩みを相談してみよう。ネット上にいる兄貴や弟が相談にのります。
嫌いになることなんかありません。
あなたはすこぶるまともです。まともという書き方はよくないかもですが、
その息苦しい哀しい思いはあなたの誠実味の証拠な訳です。
あたくしがすぐに思ったのは、
職場の同僚にしろ、関係者にしろ、割り切って接し、深入りはしなくても
いいということです。そしてそれはないがしろにすることでも、
大事にしていないことでも、ましてや欺いている自分にもなりません。
彼らの話の聞き役を一般の出来事して捉えて頷き、また問返せばいい。
そしてそれはあなたの知見の中に吸収させていくことで、あなたの判断力
の涵養とできる=身の肥やしとなることで善いのです。
結婚新婚や家庭、赤ん坊とこどものことをあなたの自分の思考力に変えて
採り入れて行くことに損も無い、というような意味です。
あなたはそれらの話を聴き、じぶんは違う、という自分に照らす誠実味で
捉えていると思うのだけれど、自分とは違うということを殊更痛みとしな
くてもいいのです。それはそれ。彼らの人生。しかし、大勢の自然な姿。
でも、あなたは自分の生活をそっと大事にして生きて行くようにする。
「そっと」と云うのは、彼らとの交わりに於いてはそっとなのであって、
あなたの活路や喜びの道である場合は、それをあたかも彼らの打ち解けた
慰み話のように会話すればいいことです。そういう人も探すようにする。
重要なことは、ゲイの仲間内自嘲族になどならないような人間として尊敬
できる相手をです。
自分は自分、ということは世間では良い意味では取られないことも多い。
そしておまえも同じ話をしろとまで、協調して仲間、同僚である絆みたい
に強要してくる、ないし、相手が違和感を持つまでの輩も多い。
しかし、本当は、彼らは正しくはないのです。
もしかして隣人が違う心模様なのかもしれない、何か心痛んで別のことも
考えたり苦しんでいるのかもしれない、それをそこはかとなくても思いを
巡らせることが本当の人間の真実に照らした「心ある姿」なのですよ。
でも、そんな深刻ぶって、殊更広範囲のことを話すまで必須のことはなく、
彼らはその場に適した自分の日常に照らして話を出しているのであって、
すべてを深く考え過ぎないでいい、しかし、彼らの現実はそうなのである
から、それに即して応じて話していればそれでいいということです。
もしもあなた自身が何かを問われたら、何も罪悪感も思わないでいい;
偽装話をでっちあげてそれで自然に交わすのでいいのです。
それを自分の本当の真実の姿ではないと苦しむことは、もはやナンセンス
となる。自分は自分で、おまえたちとは違うという提示でいいのであり、
その結果、誰かがちょっと変だと陰で唱えたとしてもそれは放っておけば
いい。罪悪感に囚われなくてもいいし、反対に、流さねばいけないのです。
最後に、ちょっと気になることは、
彼らのゲイやLGBTQの話は暗にあなたへの攻撃や揶揄ではなかったか、
それはどうでしょう。それらを一般論で話しているのかどうかを見極める
あなたの感性と判断力が求められる。
そういう陰険はゆるしてはいけないのです。そのために、いつでも上記の
ようなあなたたれという訳ではありません。
陰険には闘わねばいけない。正論は要る。それでなければ虐げる嘲笑天下
を許すことになる。少数者・マイノリティーを説けということではなく、
人としてどうか、その人間性の問題だ、ということなのです。
願わくば、あなたのその同僚たちがたわいない善良男であることを祈る。
もしも彼らが一個人としてあなたと「真に向き合う」ような人であったり、
そういう会話を成す先々なのであれば、そこであなたは英断を求められて、
自分を示す(仄めかすでもいい)か否か判断して行けばいい。
しかし、会社所属先というような場では、そつなくできる器量範囲でなら
嘘をかまして平然といてもいい、いや、それでこそ自分を大切にすること
なのだと思うべきです。
それは決して、迎合して負けて勝てということではないということです。
もしもすべてが自分の性とは真逆の息苦しさに喘ぎ日常生活もままならな
いとき、その時にはあなたの権利も風評も護られる条件で、あなたは真実
に出てもいい。
それすらも、自分の状態と周囲の理解力によるだろうということです。
今後は、あなたの本当の理解者を求めていく自分で勇敢でありましょう。
真理之丞親睦罪 (2019/07/28 Sun 23:36:55) pc *.167.121.233
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