
ゲイとして生きていく上での心や体の悩みを相談してみよう。ネット上にいる兄貴や弟が相談にのります。
あたくしが解説いたしまする。
あのね、こうちゃん、あのねのね。
友達幻想はすみませんがお捨てなさい。不要とは言わないけれど、そこに
誇大妄想で膳と憧れを求めるのに無理な思いと姿勢をどうぞ取り去ってっ。
あなたの孤独は心配いりません。
あなたはそれでいい。
無責任と思うかもしれませんが、友達とは意識して形成し持続するもので
はないのです。気が付けばそうだった。求め合っていた。
迷惑も踏みつけても笑いあえていた。
そういうことなのです。
さすれば、居ない場合どうするのか。
その時は、勇気と恥知らずが打開策となる。踏みとどまる良識を拭い去る。
そして怖さとは別の自然流で何度も重ねるのは勇気とある種の厚かましさ
しかありません。それを成せたら、相手がどう響くかだけが結果を作る。
もしも相手が響く余裕と土壌が無ければ、そこまでのこととなる。
しかし、あなたの好意(行為言動)は無駄ではありません。
その人の記憶に遺り、その人がいつでも思い出す。その風化だけでもよい
としましょう。それが一期一会の風となって別の機会のあなたの勇気響き
の成功を齎すでしょう。その人から返ってこなくても愛は周るということ
なのです。巡る。
つまり、あなたがその人に関心が(どうしても)湧いたり有ったりする時、
あなたの主体性と思慮に囚われない自由さが友達の契機を醸造するのです。
その実験を重ねてみることで何かが変わる。
変らないかもしれないけれど、変えたいのであれば試してみてください。
そして、幻想は棄てよ、ということだけど、
それは、友達が何か自分の悲しみや楽しみや隙間を埋めてくれる無二の絆
などと理想化することはしないほうがいいということです。
竹馬の友という言葉を当然引き出すあたくし。
それは上述のように結果論でしかなく、またその時節だからこそ友達足り
得たことな訳で、竹馬の友は竹馬の時年齢以外できません。できないのです。
大人になれば家庭を持ち、子どもが独り立ちしなければ周囲にかまける余裕
などそうそうなくなるのが一般の道。
もちろん、趣味や意気投合の飲みの場も多くは在るでしょう。
しかし、それはその場だけの上昇気流と血流の滾りで笑顔になるものであり、
あなたの常態に何かを作用させ隙間を埋めるまでの愛のようなものとは
違うとあたくしは考える。そういう友達が夢であるのであれば、世の中の
大半はみんな孤独のままということなのです。
そして、それでも寂しさの一陣の風が吹き抜ける時は、あなたが満たされる
ことを願うのではなく、誰かのことを気にかけて誰かの勇気や笑顔に寄せ
られる自分像を思い描き、無償の愛のような感覚で他人と接して行きなさい。
そしてその反応があれば、それを次へと繋ぎなさい。
具体的にはその人を誘ってみなさい。その人に喜びを与えなさい。
その結果が、気付けばその人は友達になっていた知らない間に、何時の魔に
かということになる。そしてその人を友達と呼んでもかまわない。
日本人の相手に失礼で邪魔という良識を超えたある種の図々しさまでも纏い
チャレンジしてみなさい。そこを超えられないと友達の結果はないという
結末が来る。しかし、そこで相手が不快で邪魔でないあなたであろうとする
には何が要るか、その会話というものにも注意が要るのが当然です。
大人になってから友人など滅多にできない、という知ったかぶりは、あなた
次第の愛の実現実行でどうとでもなるし、あなたの垣根の高さで変わる。
自分の人間性への挑戦、それが友人の結果を作る鍵だと思って欲しい。
そして本音が語り合うことを怖れないことがその先の道を延ばしていくのです。
https://youtu.be/dqJH0dq-WEs
真理之丞幻想曄 (2020/05/12 Tue 00:48:08) pc *.80.238.158
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