
ゲイとして生きていく上での心や体の悩みを相談してみよう。ネット上にいる兄貴や弟が相談にのります。
あなたの人生あなたの本性で生きるのが最高・・・
そうとも言えない世の中であり、社会であり、家庭です。
どれだけ世間で性差が禁句となり認められても蔑視も揶揄も差別もあたくし
たちの生きる年数分はおそらく無くなりはしない。
どれだけ認められても我が事として狭い空間で同じ空気を吸うことに
大歓迎な世の中と社会と宗教認識には至らないでしょう。
誰かが同性で暮らすカップルに子どもが居て就学させて隣人が何もかも諸手
を挙げて歓迎の世の中にも町内会にもなりません。
人間は本能の部分で自分との差異を完全には理解できないものなのです。
できるとはいいたい、進んだともいえる、
しかし、本当に誰もがすべてを理解し納得できるとはいえる日はそうそうは
来ないでしょう。
否、分かり合えなくてもいいのだ、暮らして行けて保証され認められる制度
が有りさえすればと云っても、実際に自分が良くても周りが良くない世の中
をそうそう均す(ならす)ことはできないのです。
あなたは自分の二面性の振る舞いに自信が有るのかどうか。
あなたは平然と嘘をつける自分であるのかどうか。これはあなたがあなたの
生活の中でゲイにうつつを抜かさない自分であり得るかという意味です。
あなたの本能を謳歌して生きる人生にするということは、
あなたに賭けた家族の信頼にだけ向き合う人生を採らないということになる。
あなたの得る友人の向こう側にあなたの本能が疼く時に、あなたは友人との
語らいだけで退き戻り帰宅することができる自分なのかどうか。
そこに自信が有るだけの気概を有している場合のみ、あなたの欲しい友を
求めてもよい。
なぜなら、抑圧と我慢と悲哀をその友人にぶつけるとして、その友人は貴方
への興味本位を越えて被害者にまでなっていくというのがあなたの欲しい物
(者)なのです。あなたは孤独と言うけれど、その友人にすれば、あなたに
利用される形で進む道になる方が多いことだろう。
そしてそそのかしてもみれば、あなたは後戻りなどできなく可能性を秘めた
存在でもある訳です。そこまでの未来絵図を解っていて求めるのかどうか。
あなたは異端の道を突き進む覚悟があるのかどうか。
冒頭のように大勢のふつうの安穏者として人生を往きたいのかどうか。
伴侶だけではなく、生き方の勇気の問題となる。
そして、異端の道を行くということは、今以上の孤独をも自分に課すという
ことであって、今の孤独の比ではないほどの哀しみを纏うことを意味してい
ます。嬉しく楽しく生きることはできると息巻いても、実際には自己満足で
しかない現実を超えることはできない。
こうしたことから、あなたのその孤独とは、とても軟弱で甘えた悲しみなの
だということが浮上してくる。
「既婚者ありの」という日本語の意味が不明だけれど、既婚者なのだとして
そう思ったあたくし。
あなたは寂しいというけれど、それは自己否定の安心の隙間に潜む窮屈さで
あり、自分の選択に責任を持たないとても甘えた人間だということです。
もしも今の自分の境遇を全部捨てる覚悟もあるのであれば、
どこまでも謳歌したい貴方を応援したい。
あなたが何を欲しいのかということと、あなたの責任感での演技の完璧さと
自信の度合いによって答えも変わって来るということになる。
どうしても欲しい本能の道なのであれば、二面性の二足の草鞋で進むことも
否定はしない。しかし、破綻と破滅と失望にどう責任を取れる自分であるか
はどこまでも覚悟が要るでしょう。(もしもの道で)
あなたが欲しい友達は貴方を慰めればいいのか、焚き付ければいいのか、
それとも、社会のジェンダー事情の蘊蓄で語ればいいのかどうか。
手を繋いで共犯者であなたの云う「裏切り」を正当化したいのか。
あなたは何を欲しいのかをもっと明確にするべきだ。
あなたがやっとこさゲイ人生を謳歌できたのだとして、そこでまたよもやの
孤独が芽吹いて来ることまで人間の心というものを性を超えて考えるまでの
貴方であらねばなりません。
気紛れと間に合わせ友人を欲しいのであれば、
今の仮面生活のまま人生を終えなさい。そこには、あなたが選択しただけの
人生の歓びも多い筈です。あなたはそれを選んだのです。
あっちもこっちもという器用な自分を自負するのであっても、その場合には
よもや予測もしなかったジレンマの悲哀がとめどもなく膨らむという結果を
齎すことを想像してみなさい。
そこまで考えた責任感という自分でしか、貴方の欲しい友は求めてはなりま
せん。あなたはゲイなる自分と解っているのだから。
真理之丞殉教唆 (2021/05/20 Thu 02:33:37) pc *.165.145.117
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