
ゲイとして生きていく上での心や体の悩みを相談してみよう。ネット上にいる兄貴や弟が相談にのります。
「木を見て森を見ず山を知らず」
あなたはそもそもゲイを特別視して歩んで迷ってきました。
しかし、その捉え方は周囲からしても当然であったにしても、いかにも
最重要なことを忘れて来て居るのです。
人間を思うということがある。
ゲイ文化というものがあるし、ゲイ街もゲイ記号もあるかもしれません。
でも、みんなみんなただの人間なのです。
脳のどこかがどうにか違うかもしれませんが、それでも人間に変わりない。
昆虫の眼でもありません。人としての思いで問わずぶつからず、
興奮軸だけで観るような生きざまで来ているから、その興奮も麻痺して
しまう訳で、生きて来た年数ぶん感性の退化と物怖じしない麻痺が拡がって
いるだけなのです。
未知のエロスの手の届き難かった季節はもうとおくに終わったのでした。
あなた、セックス以前にもセックスレス以後も、人間を思いなさい。
人としての在り様と思い。生活と夢。
あなたの薄れた新鮮味への麻痺が差し引かれて遺ったものは独身という
言い訳のやるせない空閨の埋め方だった。
それを埋めるのはエロスだけではもうないということを解りだしたあなた
なのかもしれません。
ゲイ文化もゲイ記号も自分を奮い立たせる自分へのまじないのようなもの
なのです。すべてを取っ払って、あなたの進み方を見直していきましょう。
その時にあなたはあらたな出会いとして何を語り、何を求めるのか、
あなたの経過時間とは違う相手に、あなたをどう理解してもらうのか。
それこそ、歩み方や日常の振る舞いと会話で誰かを惹き付けなければいけ
ないこととなる。ゲイだという阿吽の呼吸だけで済まないこともある。
どう若ぶっていても老化も退化も忍び寄る。
本当の文化事象や愉悦とは、無理やり纏うものではないのです。
人間としての自分のゲイの鋳型とは別の本来的な感性が問われていくこと
をちょっと再考なされたらどうかと思ったあたくし。
ただ、世には、何才になってもエロジジイということはあるでしょう。
しかし、それでも、未知から来ていた憧れの潮はもう退いたということが
ある。臭いものは臭いとしか思わなくなった自分を嘆くのではなく、
ゲイファクターとは別な次元で相手を視ようとしてみるといいのではと
思うあたくし。いかがでしょうか。
もう枯れてしまったと自他が云うのは間違いです。
滋味あふれる愛という新境地というもの「も」在る。そして若さが新鮮だと
眩しく思い直せる場合もあるかもしれません。
ゲイを忘れて進みなさい。
ゲイよりもあなたはもともとただの人間だったのです。
老いる一介の人間。あなたがなりたい自分像はどういうものだったか、
それとどれだけ違っているのか、また思い通りの人生で何も不満足も無いの
か、そういう検証をしてみるのも下手な嘆きよりは有益です。
眞理
真理之丞世迷愛 (2021/05/22 Sat 02:17:32) pc *.165.145.117
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