
ゲイとして生きていく上での心や体の悩みを相談してみよう。ネット上にいる兄貴や弟が相談にのります。
本当の愛は突き放しの(愛の)鞭の上にしか存在しない。
解ってくれる人という嬉しさの後に本当の解決は存在しない。
そして、殆んど大抵は、何も解決もせず、そのまま放置されて生きる。
そして、藻搔き苦しんで這い上がる境地に出でなければ解決はしない。
這い上がるのは自分。そうできるのは時間と客観視。
ただ、その過程で、自らを閉ざす人も一定数居るのは事実。
しかし、
さめざめと泣きぬれて・明日にも我が身を閉じるという人間が、
本当に自ら幕引きをすることは実際は「とても少ない」。
それをどこか証明した一端が、最近の芸能人の出来事だったかもしれない。
まさかという一瞬、「とある」「逢魔が時」にそれは訪れる。
話しを戻して、
「話し相手が欲しい人」、また「話したことで違うフェーズを持ちたい人」
にはこういう方は救世主となるやもしれません。
しかし、あたくしは断言する。元の木阿弥が舞い戻るだろうと・・・。
失意の人が欲しいものは、
起死回生の社会性ではない場合が多く、
(この意味は目先の落ち着きや解消が欲しい訳じゃないという意味)
自分への納得な訳です。(ゲイを納得するという意味ではない)
その納得は、どこにも依拠先が無いあなたの過去との対峙から見えて来る。
それは、何かの術(すべ)やプロフを標榜されて、
既存のメソッド(のようなもの)から誘導するようなスタンスではでき
ない。
ましてや、自分ができたんだから、あなたもできると観るのはご法度。
それ以前に、聴いてくれるだけであっても好い筈が無い。
なぜなら、そうして聴いてくれる人は、必ず、その人を客観視していて、
その人の味方ではなく、むしろダメな点を見つめているのに、
理解者だというような顔で聴く訳だ。
(だから、本当にその人のことを思えば、鞭と残酷が要るのです)
極論、待って見守る以上に「分析力」が要る。聴くことは分析とは違う。
そして、その人の裏側まで見据える眼力が要る。慰めは眼力とは違う。
(ありのままを吐き出させてホッとさせることでは解決しない)
聴いてあげて・添ってあげて・盛り立てる励ましが要るのでは「ない」。
それから、こうしたことは商売目線でやるのは疑問範囲であり、
本気の解決を目指しているとは思わない。
その商売は独断と過信。
自分の経緯が誰かを救済できる筈で・しかも・有効だという傲慢が潜む。
また、そこを「売り」にしてしまう時、いずれ「計算」が入ってしまう。
その計算が本気の邪魔をすることとなる。
支払い者は、話せたことで、錯覚して靡いてしまい、
その時だけは穏やかな心境に導かれて笑顔で(導師と)別れても、
根本的な闇が消失していないために、いつの間にか元の木阿弥に戻る。
これは、鬱病の薬に、そう意味がないことと似ている。
そういう訳で、
(1)「話し相手が欲しい」人、
(2)「一時のカタルシスを体験したい場合」は
どんどんご利用なさい。そして、(3)レジでお会計ください。
話しただけはある、という意味が無い訳じゃないでしょうけれど、
それは根本解決には至らないことを解らないといけません。
何かを惑わすかのような陽光を思わせることで個々人の性の上の閉塞は
(そうそう)解決はしない。
で、冒頭の「突き放し」なのですが、
「同情するより金をくれ」論法な訳。
つまり、慰め的盛り立てで解決はないということなのです。
聴いてくれる、ということは同情の範疇。
限られた時間で、その場に出向いて話すコマ切れの毎回でもっていき場の
ない闇は解決しない。薄まったような気がするだけ。
悩める人を「獅子奮迅の谷」に立たせて、
いろいろ自分で芋づる式に思わせる・解らせることこそが必要です。
お涙頂戴の傾聴の優しさなど、あたくしだって朝飯前にできる。
その人が本当に、自分で小さくても挑まねば変化は起こらない。
そして、それは、誰かにプログラミングされて「いざなわれる」ことでは
成し得ないことなのです。
万人向けの有料の商売の枠組みの時点で真の援けとはならない。
いいえ個人個人に添うと言うかもしれないけれど、それはどだい万人向け
なのです。通っても、できる気になるだけで終わることになる。
また、あなたもこうしてみてはと持ち掛けられてしまうかもしれない。
自分の苛酷と周囲の非業を「乗り超えた自己サンプル」を免罪符のように
して誰かに当て嵌めようとして診るのは(あたくしは)違うと感じる訳。
堅苦しくてごめんね。こころ有らば、何度かお読み重ねくださいましよ。
眞理
https://youtu.be/Pjc1z9bRaVA(turn down pl)
真理之丞逢魔鬨 (2022/05/29 Sun 22:25:44) pc *.80.68.187
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