
ゲイとして生きていく上での心や体の悩みを相談してみよう。ネット上にいる兄貴や弟が相談にのります。
狂おしい痴態を以て性欲を向けた相手とは結婚には至らない。
これは、だいたいハリウッド映画ですら常套風景かつ、定石なのです。
あられもない愛欲に溺れた相手との日常生活が「さぁ始まる」、
ということはあまり期待し得ない訳です。
だけれども、結婚という日常では「ない場合」には
そんな二人が睦んで居続けるということはふつうにあります。
そして、そんな耽美的・翻弄的・愛欲の向こうに二人の生涯の道というものは
(男女という話が主だけど)あまり無いものなのです。
在ったとしても、その愛欲三昧が延々と続いていく道は僅少。
だからあなたの戸惑いは(結婚的でなくても)ふつうの感覚。
勢いでそんなことになって、あんなこともして、その挙句に日常を別人のよう
な顔で一緒に歩めない、ということなのでしょう。
そうして愛欲に溺れても、結婚となれば、またカップルの伴侶的な道としては
この場合は男男(だんだん)でもそうですが、
意外や、あっさりと違う別人と別次元のような乗り換え的な恋愛結婚をする
ものなのです。「往々にして。」
今この話で、そのエロスからの切り替えが恥ずかしいのは相手も同じ。
しかし、愛欲には力学というものが有る。
誰かの方がイニシアティヴを持ったり執るのであって、
受け身だった方がまだ仕方なしに応じたという言い訳も立つのに、
積極的だったり倍返しエロスの人は素面(しらふ)に戻ると俄然恥ずかしい。
あのその情事を忘れたかのように日常を共にするのはある程度厚顔無恥のよう
な知らんふりをするまでの度胸が必要。それがエロスというものなのです。
したがって、あなたは自分への落差烙印を恐れている訳であり、
自分がきれいな自分像(スマートな自分像)でなければいけないと先入観に
囚われているのです。そしてあなたでなくても、違う人と矛先を変えるように
結婚する(恋人となる)傾向が大であるのは、自分の理性で隠そうとするから。
要するに、世のカップルは、どこかで自制心を自分に課して、
それを愛だと「思いたいということ」なのです。
しかし、本気願望にはどこか足らないということを封印して歩んでいる。
なお、全員がどうだとは言いません。
しかし、先にエッチを持ったような関係の二人がお互いを見せたという照れ屋
の気持ちで一緒に居ることはできても、ずっとそのままで行くということは
実は少ないだろう、と、そういう観測からの上述です。
したがって、あなたは自分がどうふしだらで底無しエロ魔人で、マゾであって
も、それを認めるべきなのです。そんな自分が嘲笑されたり、退ヒかれても、
動じない自分であらねばいけません。
それで相手が嗤って違う誰かに乗り換えて自分を蔑んでも、それでもいいのだ
と自分のエロスを肯定しなければいけない。性と愛の一挙両得を望むならば。
だが、その場合は、上記のように添い遂げられない可能性まで覚悟する必要性
まで有るのだということになる。
人間は飽きる生き物なのです。脳がそうさせる。
だから、そんなあなたの落差も呑み込んで愛してくれるそんな器量を見定める
必要があって、相手を揶揄しない強い心の男を求める必要性があるという解が
導き出されるということになる。これが回答の主旨。
いずれにしても、動じないあなた、落差の有るあなた、それでも、人間として
誠実さを譲らない「強さがあなたには必要だ」ということなのです。
眞理
真理之丞超痴愛 (2023/10/04 Wed 23:53:35) pc *.86.242.125
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